自分でも珍しいことだと自覚、でも書かずにはいられない心持ちです。
洋楽ディレクターとしてミシェル・ポルナレフの大ヒット作「シェリーに口づけ」を生み出し、邦楽制作に移行後も南佳孝、矢沢永吉、金子マリ等多数の名作を生み出したひと、が天に召されました。僕が最後にお仕事を一緒にしたのは藤澤ノリマサさんの作品でしたが… その後はしばらくご無沙汰していたので、まさに青天の霹靂でした。
高久さんと初めて会ったのは不思議な縁でした。
学生時代から一緒に音楽活動していたギタリスト・松宮幹彦さんの紹介で波多野純さんという、英詩で表現をするアーティストの録音に参加した時のA&Rが高久さんだったのです。素敵な音楽だった記憶は有れ、曲などは完璧に忘れている僕は、昨日慌てて中古レコードを購入しました。聴くのが楽しみ、でも少し怖い… 駆け出しの僕は弦や管のarrangeをしているんです。
高久さんはとにかくず〜っとしゃべっているひと、でした。
自分が今好きなもの、こうしたい、あ〜したい、同じ話を何度もするので「高久さん、その話聞きました」と言っても「そうか、でも鑑くん、区切りまで言わせてよ」と止まらないのです。でも、不思議なくらい他者の感性や意見を黙殺することは無いのです。自分が言いたい事と、他のひと、特にアーティストの言いたい事は等価だという姿勢はクリアでした。でも、しゃべる…。
スタジオでの挙動も独特で自由闊達、馴染めない人たちには傍若無人のエネルギーでした。当時はSONY信濃町の建物に複数のスタジオが有りましたので、自分と無関係のセッションにいきなり入ってきては「Bassの音が固すぎる」とか「今のtake、大オッケー!!」とか求められてもいない意見を大声で述べていくのです。驚くべきは、それらがそこそこ的確な指摘であること。
聴き込んで深く理解する能力と、即反応する瞬発力、判断力のどちらも持っていたのです。
高久さんは当時見かけが似ていた僕を、面白がって「実は兄弟なのだ」と言って回ったので、本気で信じた業界人も居た始末。何枚もの名作を作ったシンガー、ラジの録音現場では「New YorkではヘッドバンギングしてTempoを決めるんだ」と言いながら、Bossa nova系のおしゃれな曲に合わせてスタジオ内を跳びはねていました。「Punkじゃないんだから」と言っても無駄。でも真摯に良いものを作ろうとするエネルギーに周囲は巻き込まれていくのでした。
どんなジャンルでも、創り手だけでは届かない視点が大きな流れを生みます。バッハと宗教者、ベートーヴェンを理解した音楽愛好家達と同様に70~90年代には熱意と信念のディレクター達が日本の音楽を育てました。知識力以上の何かを持ち、音楽作りに人生をかけた人たち、その象徴の様なひとが高久さんでした。そしていつもお洒落でした。きっと沢山の思い出と感謝が日本中を今駆け巡っていることでしょう。
最後に僕からも「ありがとうございました」を。